今は、まだ、気付いていないとしても。
jelousy...?
某月某日、午後四時三十分。神凪綾乃は――
非常に、不機嫌だった。
理由は、彼女が傘を持っていないのにもかかわらず半刻ほど前に降り出した雨のせいかもしれないし、隣でいつものように自分をからかい続ける友人――篠宮由香里と久遠七瀬のせいかもしれない。
――あるいは。
数秒前に、彼女らの前を素知らぬ顔で通りすぎた、傍らの美女の肩を抱いた男のせいかもしれなかった。
(どうしよっか?)
(……さぁ?)
物凄い形相で――人ごみが割れるほどである――ズンズン歩いていく、自分と傘を共有する綾乃が濡れないように、七瀬は由香里と目線でそんな会話をしつつ少し小走りで進んでいく。
「待ってよ〜、綾乃ちゃんってば!」
遅れないように、仕方なく、由香里も走り出した。
(いつもいつもいつも……! どうしてアイツはああなのよ!)
自分の目の前を悠然と通り過ぎた男の顔。その男の腕にぴたりと身を寄せる女の顔。あの一瞬に、彼女の細い肩に自らの腕を回した彼が綾乃に向けた気のない視線。
綾乃はそのひとつひとつを何度も思い返してはおさまりそうもない激情を抑えようとせず、往来を突き進む。
(誰彼構わず手ぇ出すのは、いい加減やめればいいのに! あたしにだっていつもイロイロしてくるし……
さっさと一人に決めて、いい年なんだからそろそろ落ちついたって良いじゃない!)
『誰のために』やめるのか、『誰に』決めるのか、『何処に』落ちついたって良いのか。
――そもそも何故綾乃が彼のことであれやこれやと思い悩んでいるのか、その理由に気付かず、また気付こうとしないのがこの少女である。
しかし、本人には全く自覚はないようだが、彼女がここまで感情を露にして激昂するのは、先程から一瞬たりとも綾乃の頭から離れないその男――八神和麻が関係しているからだということは、周囲にとっては明白だった。
ましてその隣にいた女というのが、あの、橘霧香だったのだから、怒りも倍増、というものである。
(ちょっと美人でちょっとスタイルがいい人を見るとすぐ鼻の下伸ばしちゃって……
年上好みならあたしになんか手を出すんじゃないッ!)
高速で増殖されていく怒りに、綾乃はすっかり自分の世界に入りこんでいた。
「……ちゃん? ……のちゃん! 綾乃ちゃんってば!!」
「ぅわッ!? ……何よ、由香里。いきなり耳元で」
「なにって……もう着いたよ、カラオケ」
綾乃ちゃんったら通り過ぎて行っちゃいそうになるんだもん、と、少し咎めるような口調で言われ、綾乃はようやく自分たちの目的を思い出し、
「あ、そうだった」
妙に納得したような顔でそう言った。
「そうだった・って……もぉ〜、和麻さんが絡むと綾乃ちゃん、すぐ周りが見えなくなっちゃうんだから!」
「由香里……? 今のは聞き流してあげるけど、それ以上言うと、殴るわよ?」
「綾乃ちゃん……目が笑ってないよ……」
流石に顔を青くした由香里は、サッと七瀬の背後に隠れるように動く。
綾乃がそんな彼女に対し一歩踏み出して、口を開くよりほんの少しはやく、
「ま、とにかく入ろう」
七瀬はそう切り出すと、さっさと店内へ入っていった。
絶妙のタイミングで勢いを殺がれてしまった綾乃は、一瞬だけ由香里を睨むと、七瀬に続いた。
*
今日は雨でグラウンドが使えず、七瀬の所属する陸上部が急遽休みとなったため、由香里も生徒会の仕事をサボって、三人で久し振りにカラオケに行こうという話になった。
そして、その道すがら――彼女たちは不幸にも、仲睦まじげに歩く和麻と霧香の姿を目撃したのであった。
つまり、綾乃のこの不機嫌の意味するところは、誰から見ても明らかに――
*
「ささっ、綾乃ちゃん、トップバッターどうぞ〜」
平日のまだ早い時間帯だったためすぐに借りられた部屋に入ると、由香里は手際よくセッティングをし、綾乃にマイクとリモコン、コード本を渡した。
「折角来たんだから、楽しまなきゃでしょ?」
今だ仏頂面の綾乃にそう言い、隣の七瀬に同意を求める。
「そーだな。歌えば多少うさ晴らしになってすっきりするだろーし」
綾乃は、友人二人の意見に、それもそうだ、と一応納得し、
「よしッ! じゃあ今日は歌いまくるわよっ!」
そう言って選曲番号を入力した。
程無くして流れ出す、耳慣れていないはずなののどこか懐かしい感じのする前奏。
「こ、この曲は……!」
「一番、神凪綾乃!『人生いろいろ』行きますっ!」
「ま、待って綾乃ちゃん! こんなの、キャラに合わなすぎだよ!!
って言うかそもそも一曲目に歌う曲じゃないし!」
「その前に綾乃、この曲の歌詞ちゃんとわかってるのか!?」
ツッコミどころ満載な綾乃の行動に、とりあえず場は盛り上がったのだった。
3時間後――
「っはぁ〜……久し振りだわ、こんなに歌ったの……」
んーっ、と、大きく伸びをしながら言う綾乃に、
「楽しかったね!」
「そうね」
「……だな」
満足げに言う由香里に、二人も満更でもないといった表情で応えた。
「またこようねっ!」
「そーね。……って、ちょっと!」
談笑しながら歩いていた綾乃は、店の外に人影を見付けると、二人を置き去りにして思わず駆け出した。
その、玄関の両脇で屋根を支える、打ちっぱなしのコンクリートの柱に寄り掛かっていた人物は、他でもない、八神和麻その人であった。
瞬時に現状を把握した七瀬と由香里は、顔を見合わせて肩をすくめ、
「今日は大人しく帰ってあげよっか」
「だな」
そう言って、二人がいなくなるまで、ロビーに置かれた適当なソファーの一つに腰掛けて待つことにした。
*
「ちょっと! こんなところで何してんのよ!?」
「おー、やっと出てきた。よくこんな長い間歌ばっかり歌ってられるな、おまえら」
綾乃の詰問をいつも通りさらりと無視し、和麻はマイペースにそう言った。
「いーでしょ、別に! ストレス溜まってんのよ、いろいろと! どっかのどスケベ女ったらしのせいで!」
「……? なんだお前、また嫉妬してんのか? 霧香とは仕事してたんだぞ」
「誰が嫉妬なんてするのよ! しかもアレの何処をどう見たら仕事してるように見えるわけ!?」
和麻は、何やら物凄い勢いで怒っている少女を妙に嬉しそうに見つめ、
「まぁ、その辺のことは霧香にでもあとで聞いてくれ。当人に直接聞いた方がよくわかるだろーしな」
「……って、あんただって仕事を依頼された『当人』でしょーが」
「依頼内容を説明するのは、依頼主の方が適切だろ?」
「あたしは依頼内容を訊いてるんじゃなくてっ!」
「ま、その辺も全部あっちに聞いてよ」
「だからなんであたしがあの女……っ!?」
永久に終わりそうもなかったやりとりは、呆気なく終焉を迎えた。
「ま、何だって良いだろ、そんなこと。――それより、ほれ。さっさと帰るぞ」
綾乃を黙らせたまま――すなわち、彼女の愛らしい唇に、自分の人差し指を軽く押し当てたまま、和麻は空いている方の手で傘を広げてそう言った。
赤面したまま硬直していた綾乃は、和麻の指が離れると同時に、魔法が解けたかのように動き出した。
それに伴い、停止していた思考も働きだす。
しかし、目の前の男が『一体何をしているのか』、理解できずに――いや、解かってはいるのだが、これまでの経験と、綾乃の和麻に対する偏見が、『それ』を納得することを強く拒んでいた。
理解できないまま、彼女は、今だ降り止まない雨の中で傘を差したまま佇む和麻を、呆然と眺めていた。
「何してるんだ? 早く来い」
そう言って、綾乃の方へ手を差し伸べる。
決定的だった。
「……もしかして、迎えに来てくれたの?」
赤面し俯きつつも、目線だけは上げておずおずと問い掛ける綾乃に、
「それ以外の理由で、なぜ俺がこんなところに一人で立ってなきゃならんのだ?」
不思議なことなんか何一つない、といった感じで、和麻はそう言ってのける。
本当にこの男は自分を迎えに来てくれたんだ、そう認識し、嬉しさに人知れず頬が緩みかけた綾乃だったが、一つの疑問点に気付いた。
「あの……和麻?」
「なんだ?」
「あたしが今日傘忘れたの、知ってるわよね?」
「ああ、さっき会ったからな。だから、お前が困ってると思って迎えに来てやったんだ」
「それで……あたしの傘は?」
「これ。」
「はっ?」
和麻は、間髪置かず、何の迷いもなく、自分の差している傘を指差した。
「実はさっき俺が使ってたの、霧香のでさ。2本買うのもったいないだろ?だから、一本だけ」
な、しょうがないだろ? とでも言いたげな感じである。
しかし勿論、綾乃は納得がいかない。
「なによそれっ!?
一仕事一千万もふんだくる奴が、たかだか五百円もしない傘一本でもったいないなんて言ってんじゃないっ!」
再びエキサイトしはじめる綾乃は、迂闊にも、和麻と同じ傘に入って歩く自分の姿を想像してしまっていたりするものだから、
(そんなのまるで恋人同士じゃないの〜っ!!)
内心穏やかでいられるはずもない。
そんな事態だけは、なんとしてでも避けなければならない。そんな妙な義務感に駆られ、綾乃は必死で打開策を模索する。
「そうだ! なにも傘差して歩かなくても、いつもみたいに空飛んで帰らない?
その方が早いし濡れないし!」
名案と思われた彼女の咄嗟の提案は、
「いやそれ無理」
あまりに呆気ないダメ出しを喰らう。
「なんでっ!?」
「例え透明化したとしても、水を弾く透明な球体がふよふよ浮かんでたら、いくらなんでも一般人にばれるだろーが」
「あう……」
こんなときだけ不必要に論理的な回答を受け、綾乃はがっくりとうなだれた。
そんな、行動の一つ一つがなんとも愛らしい少女に、和麻は人知れず笑みを向け、
「解かっただろ? もういい加減帰ろうぜ?」
「……うん。」
いかにも気乗りしない、といった様子ではあったが、それでも綾乃は、大人しく和麻の隣に歩み寄っていった。
俯いて、少し頬を膨らましているようにも見える綾乃を、和麻はそれはそれは満足そうに見つめ、
「よし、帰るか。」
「きゃっ! ち、ちょっと和麻!」
綾乃の肩に手をまわし、ぐっと引き寄せた。
ちょうどそれは、綾乃と遭遇したときに、彼が霧香に対してしていたように――
「ん? どうした?」
「っ! ……手、が……」
引き寄せられている分、普段より互いの顔が近くにあって、さらに、会話をしているこの状況では、見下ろされるというより覗き込まれるような格好になり――
いつものあの威勢の良さは何処へやら。
ますます顔を赤くして、目線を下げ、消え入りそうな声で、それでも何とか主張しようと頑張る少女は、誰がどう見ても、文句なしに可愛かった。
――要するに、和麻の悪戯心は、おおいに刺激された。
すっかり赤くなってしまっている彼女の耳元に唇を寄せ、
「言っただろ?」
「!?」
息遣いが感じられるほどの至近距離から発せられた低音に、何かが背筋を走りぬける感覚をおぼえ、綾乃は思わず肩を震わせた。
そして和麻は、滅多に見せない微笑を湛えたまま、いよいよ完全に硬直した姫君の額に、唇を落とす。
それから、先程よりもしっかりと、その細い肩を抱きなおした。
――言っただろ?
――逃げられると思うなよ? ……ってな。
胸の内で、傍らの、何より誰より大切な、たった一人の少女に囁きかけながら。
ぴったりと寄り添ったまま、二人は雑踏の中へまぎれていった。
fin.
(由香里と七瀬は、遠ざかるその背中を、それはそれは微笑ましく見守りましたとさ)
(2004.08.05.)
(2005.11.18.加筆修正)
4.嫉妬
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