「そーいえば」
 時刻は午後八時過ぎ。西欧の街並を彷彿とさせる小洒落た景色の中を歩きながら、綾乃は自分の後ろから付かず離れずの距離を保っている男――八神和麻に話し掛けた。
 建ち並ぶ建造物や遊歩道の雰囲気に合わせるべく、街中より大分光量を抑えられた街灯のおかげで互いの顔色を窺い知ることはできない。
 だが恐らく、この男はいつもの気のない視線をこちらに向けているのだろう――適当に見当をつけ、綾乃は言葉を繋ぐ。相槌が返ってこないのも、いつものことである。

「日本に帰ってくる前に、あんたは何をやってたの?」
「ああ?」
 いきなり何を言い出すんだこの小娘は――和麻の口調は如実にそう語っていた。それも無理のない話である。
 何故なら、つい先日一応の決着がついた一連の事件にあたり、綾乃はある人物から、自分の過去を聞いたはずなのだ――思い出しただけで胸クソの悪くなる、その話の概要を。
 それを話せというのか? ――和麻がいつものように、適当なことを言ってはぐらかそうとする前に、綾乃が口を開いた。
「ほら、この前、その……あたしたちが初めてデ……じゃなくてっ! 夜外食に行った日、覚えてる?」
「……?
 ああ。ファーストフードのお嬢様」
「そう、それ。その日」
 予想外の方向に発展していく会話に、和麻は一応付き合ってみる。
「あの後、確かあんた言ってたわよね? ……ビッグベンを傾けた、って」
「まあ、そんなこともあったな」
 綾乃の意図していることが大体見えてきて、和麻はいつも通りの、飄々とした態度を取り戻している。
「他にもいろいろ聞いたのよ。どうしようもない呆れた話から、もしその話が本当だったら、今度こそあんたを人外のいきものと認定しなきゃなんないような話まで」
「……まあ、いろいろあったからな、この四年間」
 肩をすくめ、白々しく綾乃から視線をそらせて、
「どっかの意地っ張りな親父と、加減という言葉を知らない小娘のおかげで、な」
「なっ!? ……それはっ、その……しょうがないじゃない!
 あの時はまだ十二才だったし、お父様に誉めてもらいたかっただけでっ!」
「…………」
「……悪かったわよ。確かにあのときあたしはあんまり物事考えてない部分もあったわ」
 和麻の感情の読み取れない視線を受け居た堪れなくなったらしい綾乃は、彼女にしては素直に謝った。
「あのとき? 今も変わってないように見えるんだが?」
 くるくると表情を変え、最後はしょんぼりと肩を落とした彼女の様子を見て、和麻は意地悪くそう言った。
「このっ、下手に出ればいい気になって……!」
 すると、今度は真っ赤になって怒り出す。和麻がこの綾乃の反応が面白くてわざと気に障るような物言いをしていることを、彼女はいつになったら気付くのだろうか。
「いつ下手に出たんだ、いつ」
「あーっ、もういいわっ! あんたに付き合ってたら話が先に進まないんだから!」
「お、やっと気付いたか」
 心底意外そうな表情を作る和麻を半眼で睨みながらも、綾乃は再び話を本題に戻す。
「……まあ、あんたが出ていく前の話はとりあえず後回しとして、よ。
 いろんな噂をいろんな人から聞いたけど、あんたの口からは殆ど何も聞かされてないわ」
「話してないんだから当然だな」
 拳をキツく握り締める綾乃。彼女にしてはまあ、抑えている方である。
「だから。あたしは、あんたから直接聞きたいの。――これまでの四年間の話を」

 ――何があんたを追い詰めていったのかを。
 最後の一言は胸のうちで呟き、綾乃は真剣に和麻を見つめる。僅かな街灯と、春霞に揺らぐ月明かりの中、立ち止まって面と向かったものの、相変わらず相手の表情はうかがえない。
 綾乃だって、大体の事情は聞いている。
 まだ『若造』と呼ばれるような年齢の彼が潜り抜けてきたあまりに壮絶な過去を初めて聞かされたときに感じた戦慄は、忘れられるようなものではなかったし、結果的に彼が神凪を出ざるをえない状況に追いやった原因の一つとして、責任のようなものを感じるときもある。
 知られたくない過去だろう、話したくもない過去だろうとも、思う。
 でも、それでも。
 綾乃はどうしても、和麻の口から、聞きたかったのだ。
 彼と『彼女』に襲いかかった悲劇を。
 背中を預けろとはまだ言えない。
 でも、その背中にある無数の傷跡の一つにくらい、触れさせて欲しい。
 そうでなければ、いつまで経っても自分はこの男と並んで刀を構えることなどできない――綾乃はそう思う。

「そんなもん聞いてどーするんだ、お前? 別に楽しくも何ともないぞ?」
 綾乃の心中を――彼女が『本当は何を聞きたいのか』ということを――全て見透かした上で、それでも和麻は態度を崩さない。
「へっ!? あ、そのっ……な、なんだっていいじゃないっ」
 上手い言い訳が見当たらず、途端にしどろもどろになる綾乃。
「言えねーの? ……もしかしてお前、」
「!?」
 瞬間、綾乃の視界から和麻の影が掻き消えた。
「俺のことが知りたいだけ?」
「うきゃあっ!?」
 低く囁くような声は、一瞬にして綾乃の背後を取った和麻が、後ろから軽く抱くようにして耳元で囁いたものだった。
 一瞬の硬直の後、状況を理解した綾乃が暴れ出す。
「は、離せこのばかぁぁぁっ!! へんたいっ! 今度こそセクハラで訴えてやるんだからっ!!」
 大して力は込められていないはずなのに、何故か抜け出すことのできない抱擁。
 魔法じみた体術ですっかりはめられてしまった綾乃は、炎雷覇を出すこともできず、それこそ痴漢に襲われた女の子のような抵抗を続ける。
 そんな綾乃に密かに苦笑を漏らしつつ、和麻は更に綾乃に囁きかける。
「まあ、そう暴れるな。話してやるから、おとなしく聞け」
 その言葉に、綾乃の抵抗はぴたりと止んだ。
 しかし、一向に自分を解放する気配のない和麻に、首まで赤くした綾乃は尋ねる。
「あのー、もしかして……このまま?」
「俺が納得するような、『聞きたい理由』を言えたら、離してやるよ」
「そ、それは……」
 『和麻のことが知りたいだけ』――身も蓋もなく言ってしまえば、綾乃の動機はその一言に集約されてしまうだけに、即座に否定することもできず、綾乃はまたしても口篭もってしまう。
 が、それも数秒の間だけで、すぐに何かひらめいたような表情を見せると、
「そう! 次期宗主として、神凪に所縁のあるあんたの過去を知っておく義務があるわ!
 今はフリーの風術師とは言っても、あんたが神凪に居た事実は絶対なんだから!」
「お前……」
「な、何よ? あたしはちゃんと話したわよ。文句ある?」
 唐突に真剣な口調になった和麻に、綾乃は露骨にうろたえる。
「最初に『そう!』とか言ってる時点で、今思いつきましたと言ってるも同じだってことぐらい、気付けよな」
「………………あ」
 自分の腕の中で、『せっかくいいの思いついたのにーっ!』とかなんとかわめいている綾乃を他所に、和麻は先刻の綾乃の台詞を反芻していた。
 神凪に居たことは絶対――彼女の言うことは、間違っていない。
 いくら名前を捨てても、いくら炎術以外の道を極めても、神凪和麻として過ごした時間を消すことはできない。というか、消したくても、消せない。
 事実は事実として、そこに在り続けるものだから。一度起きてしまったことを、完全になかったことにできる存在など、それこそカミサマくらいしか候補者が浮かばない。
 そしてそれは、八神和麻として生きてきた時間にしてみても、同じことだった。
 仙術の修行をした時間も、風術師として世界中をまわりこなしてきた仕事も、そして勿論――『彼女』の存在も。
 和麻にとって、綾乃は術者としてはまだまだ発展途上もいいところの、自分の腕にすっかり収まってしまうような小娘だったが、そんな小娘に気付かせられるものは、少なくはなかった。
 太陽になぞらえられるのはその身に纏う霊気だけではなく、彼女の存在全てが、気付かなかったことも、気付きたくなかったことも、全てを白日の元に曝け出す力を持っていた。

「……和麻?」
 抱きしめたまま何も言わない和麻を不思議に思った綾乃が、声を掛けてくる。
 背後から抱きすくめられ動けない綾乃は、先程から和麻の表情がまったく見えない。
 ただ、少しだけ希薄になった気配から、考え事をしているらしいということだけは、わかっていた。

「あ、あたしもしかして……なんかヘンなこととか……言った?」
「いや……」
 適当に返事をしながら、和麻はすぐ目の前にある綾乃の後頭部をみつめる。
 目を逸らすことを許さない神々しささえ感じられる、彼女だけの朱金の炎を思い出す。
 激しい気性、思い切りの良すぎる行動、可憐な容姿、神剣を構える凛々しく美しい横顔――そしていま、和麻の腕の中へ閉じ込められただけで赤面し狼狽してしまう可愛らしい一面――それら全てが、八神和麻が『手に入れる』と決めた存在だった。
 それらすべてが、和麻を惹きつけてやまない、彼の現在を象徴する少女を形作るものであった。
「よし、まずはそのビッグ・ベンの話からしてやろう」
「ってちょっと!」
 話し始めようとした和麻に、今度は綾乃が静止をかける。
「なんだ?」
「……やっぱりこのまま?」
 おずおずと尋ねる綾乃に、
「俺があれで納得したと思ったのか?」
「思って……ないわよ……」
 返ってきた予想と違わぬ返答に、背後から抱きしめられたまま、綾乃はがっくりと肩を落とした。


 和麻の話、どれもこれも驚愕に値するものばかりだった。
 綾乃も大概むちゃをする方だが、和麻のそれは綾乃の比ではなかった。
 どの話でも、彼は、普通は誰も考えない、考えついても実行に移すことはまずしないようなことばかりしでかしている。
 今、和麻の口から聞かされていることを全てやってのけるには、半端じゃない実力と、マトモじゃない精神が必要とされるだろう。
 綾乃もはじめのうちは、口を半開きにしたまま、ただ呆然と話を聞いていた。
 なにしろ、聞かされているのは、理解がどうとかいうレベルの話ではない。認識がついていけるかどうかというレベルだ。健全な精神とか、一般的な常識とかを持ち合わせている人間なら、まず頭が拒否反応を起こす。
(とんでもない奴だとは思ってたけど、まさかココまでエグい……いや、凄いことをやってきてたなんて……)
 しかし綾乃とて、一般人、というカテゴリーに括られる種類の人間ではない。思考力を完全に取り戻した頭で、聞いた話を整理してみる。
「あとは……あ、アレだな。オーストラリアで……」
 綾乃の前で組んでいた手を解き、指折り数えながら、和麻は話を続ける。そろそろ両手の指では足りなくなりそうだ。彼にしては珍しく饒舌である。
 話ぶりからもうかがえる通り、和麻はこの四年間、本当に様々な場所をまわっていたらしかった。彼の口から出てくる地名も、ヨーロッパ、アフリカ、南北米、シベリアと、南極以外の全大陸制覇を達成している。
(……あれ?)
 そこまで考えて、綾乃はあることに気がついた。
(肝心なところを何もしゃべってないじゃない……!)
 そう。和麻は東アジアにまったく触れていないのだ。今日までに綾乃が事情を知る何人かに聞いた話によると、神凪を出た彼が新しく人生を始めようとした場所、つまり、『彼女』と出会った場所は、香港だったはずである。そこに触れようとしないということはやはり……
(触れられたくないんだよね……)
 途端、綾乃はどうしようもない罪悪感に駆られた。話して欲しいなどと思った自分を恥じた。そして、いま、自分の後ろにいる男は、どんな顔して話してくれているのか気になった。
 思い立ったら即行動が彼女の性分である。いつのまにか緩められていた腕の中で、彼と視線を合わせるべく、綾乃が後ろを振り返ると――
 いつもの顔が、いつもの笑いを浮かべていた。
 その瞬間。
 さしもの綾乃にも、すべてわかった。
(最初から全部気付いてわね、コイツ……!)
 思ったときには、綾乃は和麻の胸を力いっぱい突き飛ばしていた。
 渾身の力が込められたはずの両手突きを受けたにもかかわらず、和麻は約二メートル後方に足から綺麗に着地した。
 自分が抱きしめたときとは違う理由で、整った顔を朱に染めている少女をニヤニヤと見やりながら、
「なんだ? もういいのか?」
 などと、白々しい台詞をさらりと言ってのける。綾乃はこめかみを大分引きつらせながら、
「あーもういいわっ! でもいつか話したいって言わせてやるんだから! 待ってなさいよ!」
 相手が自分の意図を完全に察知しているという前提で言い放った。

「そりゃ、楽しみだ」
 薄笑いを浮かべたまま、和麻が返す。
 いつか――それがいつになるかはわからないが、この勇ましい姫君の宣言通りになる日が来るかもしれない――ふとそんな予感が、和麻の脳裏を過った。
 そして、そんな自分に思わず苦笑する。
(もしかすると、こいつより寧ろ俺のほうが――)
 恐らく正しいその推測を途中で打ち消し、浮かべた苦笑を濃いものにする。
 それが綾乃には――毎度のことだが――嘲笑と映ったらしい。
「せいぜい今のうち余裕こいてなさいっ!」
 いつもなら炎術をお見舞いするところだが、日もすっかり暮れたこの時刻に公の場でそれをやることが御法度であるとわからない綾乃ではない。
 和麻にひと睨みくれてやると、肩を怒らせたままさっさと帰路につく。

 ――炎雷覇を抜かなかったのは、公衆の目を気にしただけではなかった。
 和麻に背中を見せる綾乃に既に怒りの表情はなく、かわりに決意の色が見えた。
 今のままじゃダメだ。
 もっと強くなって、もっと和麻にとって頼り甲斐のある存在にならなくてはいけない。
 そうでなければ、綾乃はずっと、護られるだけの立場になってしまう。
 それは、彼女の望むところではなかった。
(待ってなさいよ、和麻――!)


「……待ってるさ」
 夜の闇さえ払拭してしまいそうな強い光を纏う少女の背中に、小さな呟きが投げ掛けられた。





 fin.







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(2005.04.12.)
(2005.11.20.加筆修正)



 64.待つ
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